梶原吉広のサッカーを勉強する

梶原吉広のスポーツブログもどうぞ、よろしくお願いします。

以前ラクビーの記事にも記載してましたが今回はサッカーを追求をしていきます。起源の諸説は色々あるみたいです。有名な説から紹介致します。このフットボール祭はちょっと残酷な話になりますが戦争で勝利した時に敵将の首を蹴って勝利をしたというのがお祭りに発展していった説。そして祭り以外にも遊びとしてゴールを定めてゴールまでボールを蹴りあったそうです。ですが始めはルールがほとんどなかった。参加人数、使える体の部位も行う地域によって様々です。もう一の説はイタリアでのカルチョという格闘技のような球の蹴り合いです。賭け事の為行っていた競技から派生した説。そしてFIFA公認の有力な説は日本にも縁ある中国の蹴鞠です。まだ、どの説なのかは解明はされておりません。

1848年に各地で違うサッカールールの統一に影響をもたらすケンブリッジ大学で会合が行われる(後のフットボール協会「FA」設立のきっかけになります。)。ラクビー校などのパブリックスクールの代表達が集まり、様々な状況で楽しめる学校とは繋がりのないフットボール・クラブを設立をしていった。各地で広まるフットボールにはケンブリッジでのルールを元にクラブ独自のルールで試合をする形式でした。そしてそのクラブの中でも中心的であるシェフィールド・フットボール・クラブが改めて1860年代前半にクラブのルールとパブリックスクールや様々な試合でのルールを統制を始めた。こうしてシェフィールドサッカー協会が設立に繋がった。またFAとサッカー協会は互いのルールを受け入れ次第にラクビーとは全く違う「サッカー」競技が確立をしていった。また1867年には初のサッカー大会、「ユーダン・カップ」も開催された。

また1870年にイングランドとスコットランドの初の国際試合が開催される。この時期のイギリスは産業革命で蒸気機関や他国への輸出が盛んな時期でした。その時に他国へ行った技師たちがサッカーを広めていきました。そして広まりやすかった理由の一つにボールと場所さえあればどこでもできるという利点です。貧しい国でもすぐに広まっていきました。日本にサッカーが伝わる経緯は1873年にイギリス軍人が休暇の時に日本海軍に広めたのがきっかけです。その後、横浜や神戸でサッカークラブが作られて広まっていきました。1878年には現在の筑波大学で「高等師範学校体操専修科」にて科目として加わり、その卒業生が教員となり更に広まっていきました。

 

梶原吉広が柔道を勉強する

日本を代表する世界競技「柔道」。歴史を知ってる方も多そうですが、改めてお伝えして新しい発見があればと思います。

元々は武士たちの武芸の一つ。敵の体制を崩し打ち取るという技法です。戦国時代が閉幕し江戸時代になると「柔術」として発展する。柔術は武器なども使用しまた相撲もこの派生の一つです。武者修行を行う者も増え他流派との交流や試合も行うようになりました。相手の攻撃を交わして反撃するような技が作られ始めます。これが派生して今現在でも行われている柔道と進化をしました。明治15年に嘉納治五郎が固め技主流の流派「天神真揚流柔術」と投げ技主流の流派である「起倒流柔術」を技を調整、融合をさせて講道館柔道を設立した。講道館柔道は嘉納治五郎が考案した思想や教育論等を組み込み、この後に成立した日本の近代武道ほぼ全てに形造る教えに繋がっている。

明治21年に警視庁武術大会で講道館柔道の実力を証明した。この大会による講道館の活躍で三島通庸警視総監が関心をして、警察官への必要授業として指導員の雇用を初めて、その結果で日本中に広まる事になりました。今現在警察官として必ず初段まで修得しなければならない武術として柔道、剣道を行っている。また地域の健全育成の為、教室を開いている事もあります。

1898年当時の高校生達に授業の一環として柔道が科目となった。終戦後にGHQにより学生教育の科目に柔道が一時的に禁止になるが、1950年に中学生の科目として再度柔道が授業の一環として決まりました。2012年には中学校での体育授業で柔道を含む武道が選択必修科目となりました。今現在では、ほぼ全校の中学、高校に部活に柔道を取り入れられています。授業以外にも課外活動として幅広く浸透しています。

1932年に柔道がロサンゼルス五輪に公開競技で行われた。1964年、東京五輪にて正式競技となるまたその際に無差別級でオランダ選手が日本人を打ち破り金メダルを得る。その影響で海外で柔道が広まっていきました。また女子種目は1992年バルセロナ五輪では正式種目となった。こうして柔道は世界に広がり性別も隔て広まっていきました。現在では国際連盟に参加した国は199カ国にまで広まる。驚くことに日本よりもフランスの方が競技人口が多い。約20万人以上もフランスが競技人口を上回っています。(ただこれはあくまでの連盟に登録した人数に過ぎず、日本での柔道人口は、ほぼ未知数です。)

日本だけでなく世界に広まった、日本の武道である「柔道」。身近ながら偉大な競技という事が判りました。

 

梶原吉広がラグビーを勉強する

最近日本で話題に取り上げられるラグビー。競技は知ってるけど歴史や文化なんて知らない方は多いのではないでしょうか?そこで今回はラグビーを取り上げていこうと思います。

1823年イングランドの名門校「ラグビー校」でフットボールの競技中にボールを手でつかんだまま敵陣のゴールに走り出したことから始まる。その頃のフットボールは手を「使用」する事はルール上では違反ではなかったが、手にボールを「持つ」ことは違反であった。しかしこの違反をして生まれたのがラグビーの始まりになった。この学校で試合着や、卵型形式の球も大半の規制要素が考案された。

ルール違反からラグビーの始まりって凄いですよね。今では世界中で行われるスポーツまでに発展したのが素晴らしく思えます。

またラグビー始まりは1600年代のイングランドで数千人の大人数が手と足を使って競技する「原子フットボール」を行っていた。試合は死者が出るほど激しかったと言います。

1863年にフットボールの名門校同士でルールの統一を図りこれを期に「サッカー」が生まれ、片方ルールに納得できないが為に脱退し「ラグビー」が生まれた。その脱退者が集まり1871年にラクビー協会を設立した。

イギリス貴族に人気があり「紳士のスポーツ」とも呼ばれていました。最初は反則から生まれた競技がここまで広まるとは誰も予測しなかったと思います。

ラクビーは主に英国の炭鉱で発展をしていった。1895年にラクビー選手の休業補償問題が原因で協会に分裂が起きてプロリーグが発足した。今現在でもその分裂は続いていてノンプロメインの「ラクビーユニオン(ラクビー協会)」と賞金を目的とする「ラグビーリーグ」の2種類存在します。因みに日本は「ラクビーユニオン」です。この2種類のリーグは名称だけでなく規則も違います。ユニオンは15選手、リーグは13選手で人数が違い更に最も違う点と言えるのは密集を排除した事です。この二つのリーグ対立は根深く、一度ユニオンを離れてリーグに移ったら戻れない事もありましたが、ワールドカップの影響でノンプロを守ってきたユニオンがプロを認め、コーチの交流や選手のリーグ間行き来する事も多くなり対立は温和している。今ではリーグとユニオンの双方のルールでゲームを催行するクロスコードゲームが開催されることもあります。

フットボールから始まり、学生の反則で新しい競技になり、プロとノンプロの対立がおきて今は関係が修復される。もしかしたら2つのラクビーが1つになるかもしれませんね。

 

梶原吉広が野球を勉強する

日本では誰しも知らない人が少ないくらいのポピュラーな競技の野球(ベースボール)。歴史や文化も幅広そうです。発祥国はアメリカですが、どのような歴史を経てアメリカにたどり着き今の野球になったのか調べていきましょう。

古代、旧人類の時代に野球ボールと同程度サイズの石が使用されていたことが確認されている。アフリカから大量にその石が発掘された。判明はされていないがおそらく武器であったと考えられている。俊敏な動物を狩る為に命中率、殺傷能力を兼ね備えた結果が野球ボールと同じくらいのサイズだと旧人類達は既に考え投げていたと思われます。農耕の儀式で古代エジプトで行われていた。球体は「世界と宇宙」で王がその球体を棒で打ち、凶作か豊作かを占っていたそうです。

中世時、フランスで「ラ・シュール」という競技が流行した。2チーム編成し手足や、棒等を使用して敵陣に2本の杭を立たせそこに球を通す競技です。現存する球技競技の原型とされる競技です。死者や重傷者が出るほどのリスクがあるにもかかわらず人気が非常に高かった。これがイギリスに伝わり「ラウンダーズ」という競技が誕生した。投手がソックスなどに石を詰込んで投げるて、打者が船の艪などでそれを打って、杭等でできた4つのベースを回るという競技です。これから少しずつルールを変更しながら親しまれた。タウンボールと言われた時代があった。この頃には投手が打者の打ち返したボールを周囲に散らばった野手がキャッチして打者(走者)に当たればアウト、4つのベースがあり、それを回って通過すると得点になる競技が広まる。この競技が広まるとベテラン選手が他の選手たちをまとめる選手が出てきました。それが後の監督へと繋がります。なぜ野球監督が選手たちと同じユニフォームを着ているのかという理由がここからの名残だという事が判ります。

18世紀にはベースボールという単語が書物に記され始める。最も古い文献は今判る中では1791年マサチューセッツ州での広場利用するためのルールが記載された内規に閲する事ができます。その中で「Baseball」や、またその近い名称が記述されている。1834年アメリカで「スポーツの本」という書誌が発行される。そこで「ベースボール」が記載されている。ただ規制は地方によって様々で定まっていなかった。

1840年代にニューヨークで消防隊がスポーツ団を結成する。屋外で競技ができるタウンボール行う事になる。その際にいちいちルールや規制が変更したりして煩わしい為に定められたルール、規制を作るためにメンバー同士で議論を出し合いまとめて公表した。これがベースボールの起源とされている。

梶原吉広がテニスを勉強する

テニスは基本二人または二組で競い合う競技です。爽やかなイメージが強い「テニス」ですが、どんな歴史があるのか勉強していこうと思います。

人類がボールを打ち返す形態は紀元前のエジプトでは信仰的な行事の一つとして行われてきたみたいです。紀元前15世紀に発見された壁画でボールを打ち返す姿の人々が記されているものが見つかりました。その後、エジプトで行われたこの行事は古代ローマに広まるが、現在のテニスに直接繋がる球技は8世紀フランスで発生する。その名はスールです。ケルト語で太陽って意味です。更に16世紀には貴族たちの遊戯として定着するジュドポーム(掌の遊戯という意味)と呼ばれました。なぜフランスでこの球技が盛んになったかと言うと8世紀から11世紀まで南フランスまで進出してきたイスラム教徒が宗教的に行っていたものに、キリスト教の信者が興味を持ちだしたことから広まります。実は「ラケット」ってアラビア語なんです!!当初のテニスは攻守交替の時に「トゥネ!(Tenez)」と掛け声をする為ここから「テニス」の名称になりました。因みにトゥネとは「ボールを落とさずに取って見ろ!!」という意味です。基本的なルールは現在のローンテニスに似ている箇所もあり、ファイブス、ペロタ等の送球から発展をしている。

テニスコートは寺院にあり、四方に壁や天井に囲まれていた。現在の形式テニスよりもコートは大きくヨーロッパの貴族たちに大流行する。しかし残念ながら多くのコートを建造したのですが、現存するものは残り少ない。近代における貴族階級の遊戯テニスはイギリスでは「ロイヤル・テニス」、アメリカでは「コート・テニス」とも呼ばれている。

中世でのラケットはフォームがやや異なるラケット、あるいは手でボールを打ち返す。ジュドポームで使用する球は重たく危険で反発性が少ない為にグローブを着用する事もあったそうです。傾いた屋根に転がるように打ち上げて落下してきたボールを二度弾ませないように打ち返す。「サーブ」の語源ですが「サーバント」日本語で「信徒」という意味からきています。14世紀には現在のラケットの原物が作られた。ストリングスが使用されてないフォームでしたが、16世紀にはプレーヤー本人が手作りでストリングスを使用して今の形に近づいたそうです。

現在行われている芝生でのテニス、通称「ローンテニス」になってからの経緯はまだ短い。1873年に「スフェリテキ」というレクリエーションでラケット、ネットを製品化して芝生の上なら場所を選ばず楽しめる「持ち運びができるテニス」と言われた。ボールは中が空虚のゴムボール。今でいうソフトテニスで使用するモノと全く一緒です。このレクリエーションはイギリス、アメリカで飛躍的にに広まった。ゴムボールが芝生の上で不規則なバウンドの為フェルトを巻いた物も工夫されてやがてフェルトカバーを施したボールが主流になる。

1877年にイギリスのロンドンで第1回目のウィンブルドン選手権が開催される。1881年にはアメリカでは当時の国立ローンテニス協会、現在のアメリカ・テニス協会に規程を定めて競技を構成、構造して現在におけるテニスとして広く親しまれています。